女川

街の復興スピード『女川町が早い理由』


安倍昭恵氏×ジャーナリスト・津田大介氏×女川町長・須田善明氏×JapanGiving代表・佐藤大吾氏
G1サミット2015
第4部 分科会B「持続可能な復興計画~女川町はなぜ防潮堤を選ばなかったのか~」

東北各地で進められる復興計画。被災3県で整備予定の防潮堤は総延長386キロ、防災効果、景観や生態系保護の観点から、計画を懸念する声も上がる。宮城県女川町では、復興計画において防潮堤をつくらないことをいち早く決定した。町民の合意形成によって、海と共に生きることを選び、居住地の高台への集約を進めている。魅力あるまちづくりと、災害に強い都市計画を両立するための解はどこにあるのか。土地の資産を活かし、自然と共存していくために、どのようなまちづくりを進めていくべきか(視聴時間1時間16分58秒)。

安倍 昭恵氏
内閣総理大臣夫人
須田 善明氏
女川町長
津田 大介氏
ジャーナリスト メディア・アクティビスト
佐藤 大吾氏(モデレーター)
一般財団法人ジャパンギビング 代表理事
NPO法人ドットジェイピー 理事長

【ポイント】
・震災から4年たち、東北の復興を見てきた中で感じるのは、町のサイズや意思決定の仕方、民間行政の役割分担などによる復興格差が生まれていること。女川は復興のスピードが速い。ポイントは、町のサイズ感と、あまりにも大きすぎた被害による危機感。街の復興に携わる人たちから「いつのまにか復興のトップランナーだといわれているが、最初の自分たちの復興プランからは1年遅れている」と聞いたことが象徴的(津田氏)

・やり方次第でもっとスピードはあがっただろうが、町が最終的にできあがってから、持続性のある形になっていることが大切。住民への説明会では、少し時間はかかっても将来的な質を確保し、町としての構造を持続的にするプランを全て私が話した。就任以来言っているのは、わが町の復興にかりに1000億かかるとすると、日本国民1億2500万人のみなさん1人ひとりから800円いただくことになる。みなさんの負担でなされる復興事業で何でもやってしまおうというのはだめだということ(須田氏)

・防潮堤問題は、1年半くらい前から動き始めた。NPO法人森は海の恋人の畠山信くんに東京で会い、「この問題は本当におかしいから本気でやる」と言うと、彼は「阿部さんの本気って何ですか」と。被災地を復興していく30代の若者が、大人を、この国を信じられないと言ったのが、胸につきささった。被災して大変な思いをしている若者が、復興にあたって、亡くなった2万人の人たちの思いを胸にいい町を作っていこうという希望にあふれていてほしい、それを大人として手伝いたいと思った(安倍氏)

・女川では震災1カ月ほどで復興対策室が立ち上がり、住民へのヒアリングとアンケートを開始。浸水エリアの7割の人は高台に住みたいという結果に基づき、初期復興プランができていた。震災8カ月後私に首長が代わってから、10年後を見据えた形を目指し、民意をベースにしながらも構造についてトップダウンで進めてきた。そこからどうするのかは、住民と議論する(須田氏)

・町民の100人に1人が直接意思決定プロセスに関与するかたちで、ワーキンググループを立ち上げている。活動が進むにつれて具体的な活動に拡散していくが、住民主体の行動のあり方として、自主的なワークショップをどんどんやってもらっている(須田氏)

・主人は、震災後すぐに被災地のあちこちで「もうこんな怖い思いをしたくない、高い防潮堤を作ってほしい」と言われたと。国の防潮堤復旧予算が組まれたら、行政側は作る決断を下すのが当然。その後は説明会が行われたものの、選択肢もなく、若い人が参加できない時間帯の開催など、行政側の進め方にも問題があったのでは。これは被災地に限らず、自分の町をどうしたいか、どのような暮らしが幸せなのかということを、私たちはもっと子どもの時分から考える必要がある(安倍氏)

・復興に外部からの力をどう使うのか。外部からのコンサルのプランのままでは、住民不在になることも。本当に住民が望んで、外からのコンサルと有機的につながることが大事。
女川が面白いのは、外部からきた小松洋介さんが信頼を得ていること。外のプランが魅力的であったとき、それを活かせるかどうかが自治体の受け入れ態勢にあることも。女川はそこが特殊でもあったのかと思う(津田氏)

・コンサルに説明されても自分が納得していないものは住民に説明できない。自分がどこまで納得できるものであるのかということが大事。小松さんは、復興協議会の中での発言を全部、翌日にはパワポの資料にまとめた。その場では盛り上がっても、形にして提供しなければ発想は広がらない。そうしたブレインストーミングの触媒が、いろいろなアイディアを展開するためのガソリンになっていたのではないか(津田氏)

・地方に行くと、過疎のところもたくさんあり、このままでは何十年後かには人がいなくなってしまう。被災地は本当に残念だが、多額の復興予算がついているという意味では、他の地域にはない可能性がたくさんある。自分たちの未来への希望に満ちた復興ができてもいいと思うが、うまくお金が使われていないのは残念なこと。
地方には、田舎のよさを生かして頑張っている人がたくさんいる。被災地に限らず、これからは地方の時代(安倍氏)

・女川では、震災一週間後にキーパーソンが集まった際、女川の商工会会長が「これからの町づくりは若いものがやらなくてはいけない。還暦以上は口を出すな」と。これがキーワードだったと聞いた。上の世代の思いをどう継承して現役世代がやっていくのかがポイントでは(津田氏)

・震災前から比較的そういう気風があったが、震災後何ともしようがない状態になったときに、「還暦以上は口を出すな、還暦以上は全員顧問。50代、40代、30代の未来を生きるお前らがやれ。俺らは責任をとれない。君らは生きているはずだ。俺らは君らが考えたものに金策もする。鉄砲が飛んでくれば、弾除けになる。だから君らがつくれ」と(須田氏)

・障害を取り除く役割を担われた。それを取材した結論は、女川は商人の町だからではないかと。隣の石巻は旦那の町で、上の人に若い人がなかなか理解を得られない。町のもっている歴史や文化が影響するのではないか(津田氏)

・まったく変わらない女川の町の形は、良くも悪くも地域性を濃縮しているのかもしれない。震災がおきて私が組長になり、毎日の話し合いでイメージの共有もしてきた。行政としてそれぞれの役割を果たした全体がチームで、私はチーム女川の一員だということ。
震災後、もう一度息を吹き返させるのはわれわれ世代。20年後に、9割の確率でここに生きているはずで、その姿を具体的に想像できるから。女川の場合、そういう部分で先輩方からまずやってみろと言っていただいたのが大きかった(須田氏)

・女川の7000人という規模は非常に重要。女川特有の条件があるから上手くいくこと、普遍的に上手くいくことの両方があるだろう(津田氏)

・行政の手元にあっても表に出せない情報がある。復興の状況や精度について、議員さんたちと共有すべき。同じように、住民に対してどのくらい情報を出しながら共有していけるかが重要だとおもう(須田氏)

・主人は、自分が行きたいところに行くことはほとんどない。幸いに自由な立場にいる私が、主人に直接伝わらない声を伝えていきたい。ただしそれなりに発信力や影響力があるので、防潮堤を作ってほしい方たちにとってはとても邪魔な存在。そういう声も含めて主人には届けたいと思う。船からリアス式海岸を眺めたとき、震災後も自然はほとんど変わらないと気づいた。崩れているのは、すべて人間の構造物。人間が自然を全部支配しようとするのが間違いだ、と被災した人たちから話を聞き、もう一度考えなおさなくてはと感じた(安倍氏)

(肩書きは2015年3月20日登壇当時のもの)

「還暦過ぎたヤツは口を出すな」

女川町のまちづくり計画が、その他の自治体に比べ群を抜いて速い理由がもうひとつある。計画に携わる人の「若さ」だ。

女川のまちづくりは、町の住民・行政・有識者が参加する「女川町復興まちづくりデザイン会議」をはじめ様々な会議の場で、どんな町にすべきか、どこにどんな施設を置くべきか、そこには何が必要かを何度も話し合われてきた。会議は高校生から40代が参加し、「よそ者」である小松氏もメンバーとして関わる。基本的にそれ以上の年長世代はアドバイスを送り、あとは見守るということになっている。

「当時還暦だったFRKの会長が『60代は口を出すな。50代は口を出してもいいけど手は出すな』と言ったんです。一通りの工事が終わって町ができあがるのに最低10年、その町づくりを評価されるまでにはさらに10年かかる。そのときに今の50代60代は責任が取れない。責任を持って町を担っていく若者に任せようと。鳥肌が立ちました」(小松氏)

震災後の2012年、前職から推される形で初当選した須田善明町長もまだ42歳。フットワークは軽く、決断も早い。町長になる以前は県議会議員で、FRKの顧問も務めていた。顔が見えるという意味では、行政と民間の距離が近いというのも女川の特徴だ。

現地の人に話を聞くと、女川は東日本大震災によって破壊され、何もかも失われたかに見えたという。しかしだからこそ、すべてがなくなってしまった後、もう一度始めるしかなかった。

町のサイズがコンパクトで誰の顔もよく見えたこと。商人の町だったからこそ、町全体の利益をみんなで考える場を作れたこと。「若者」と「よそ者」を信じて任せようというリーダーシップがあったこと。そして何より、絶対に復活するという人々の思いがそこにあったこと。

女川だけが正解ではない。しかし、東北が復興する一筋の「光」が、この町を照らしている。

なぜ女川が一歩先を行けるのか

2015年3月21日にはJR女川駅が再開する。これでJR石巻線の全線が開通することとなり、仙台からも列車で訪れることができるようになる。女川町ではこの日を「新生女川のまちびらき」と位置づけ、記念式典を行う。世界的建築家の坂茂が設計した駅舎はウミネコの羽を広げる様子をイメージした屋根が特徴で、外壁には県産のスギ材を使用する。併設される町営の入浴施設「女川温泉ゆぽっぽ」には、日本画家の千住博が幹を描き公募で集められた花の絵のタイルが埋め込まれた壁画があり、町内外からの利用を見込んでいる。駅のホームからは海が一望でき、駅舎から海岸に向けて伸びる遊歩道沿いにはフューチャーセンターや商店街、祈りの場や震災遺構である女川交番を含む公園などが本格的に整備される予定だ。

「話し合いを重ねていくうちに、消費だけを目的とした導線にしたくないね、となったんです。水産業体験があったり、女川のものが買える物産センターがあったりという外向けのものと、子どもたちが勉強する場所がだとか、女川の人がおもしろがりそうな県内外の他の地域のものが買えたりする所も作ろうということになっています」(山田室長)

「女川と他の町の何が違うんだっていうと、おそらく『商人の町』だったということなんだと思います。だから僕みたいな、もともと仙台出身で仕事も南三陸とかの沿岸地域でやってはいたものの、震災後にボランティアで通い詰めて移り住んだような『よそ者』でも排除されなかったというか。そして町のサイズがコンパクトで、夜飲みに行くとすぐ顔が見えるので、町のキーパーソンともあっという間につながれるようなところがありました」(小松氏)

山田康人室長(左)と小松洋介氏(右)

FRKで水産・観光・商工の3業界から人が集まって会議をする際に、まず示し合わせたのは「すべての産業はつながっている」ということだった。良い水産物や商品がある所に企業や観光客が惹かれてやってくる。そうやって全部がつながっているのだから町全体の利益を一緒になって考えよう、という意識合わせをしたのだという。商人の町ならではの話だ。

 

 

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