三浦一族 終焉の地【三浦 油壺 新井城址と道寸祭り】動画


三浦一族 終焉の地【新井城址と供養塔】油壺

1180年、三浦一族の祈祷所であった三浦三崎の海南神社の占いから始まり、源頼朝と共に鎌倉幕府を創建し、日本全国に勢力を拡大しました。

それから436年後の1516年7月11日(来年で500年)同じ三浦三崎の油壺で命運が尽きてしまいました。

三浦三崎で三浦一族が始まり、同じ三浦三崎で三浦一族は終わりました。

その最期の地が 戦国期の「新井城合戦」のあった油壺です。

三浦義同(道寸)は、ここで3年もの持久戦を耐え、最後は自害して、三浦一族は2度目の滅亡にあいます。

その血が海面に油のように浮いていた様子が「油壺」の由来との説もあります。

「新井城址」は油壺マリンパークの南側、油壺湾に突き出たあたりにあります。

現在、そのほとんどは「東京大学大学院理学系研究科附属臨海実験所」の中となっています。  

油壺マリンパークの北側の胴網海岸へ下る道の途中には、三浦義同の供養塔があり、自由に散策できます。

ちなみに三浦義同の子孫である養珠院『お万』は、徳川家康の側室となって紀伊・水戸の両藩祖頼宣・頼房を生みました。

つまり徳川光圀は養珠院『お万』の愛孫です。

徳川将軍は八代吉宗以降、養珠院『お万』の子孫である紀伊・水戸の両藩主によって占められています。

 

【引橋】

「引橋」という地名も残っています。「引き橋」とは、いざ合戦のときに引き外して敵の侵入を防ぐ働きをする橋のこと。

現在の国道134号線の交差点「引橋」付近は「外の引き橋」。

「内の引き橋」といわれるのは、バス停「油壺」の少し先になる辺りで、北は小網代湾、南は油壺湾が迫り最も狭くなっています。

当時は掘られた上に橋がかけられていたといわれています。今も内側に土塁の跡が見られます。

 

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