三崎城 (三浦水軍から三崎水軍へ)と 城代 出口茂忠(出口光先生との御縁)


三崎城と城代 出口茂忠(出口光先生の御先祖との関係を調査中)

三浦半島はもともと土着する海賊衆の拠点の一つだったものが、三浦氏の配下に組み込まれ、三浦氏の滅亡とともに北条水軍の中核を担う役割を負っていた三崎城。三浦半島南端、往時は三浦水軍の一大根拠地となっていた海賊城である。 別名で三浦城。城の創建は定かではない。

鎌倉幕府成立期の建久年間(1190年~1199年)、 後に三崎城外縁部として取り込まれる位置にある本瑞寺の敷地に 源頼朝が桜之御所を建てたとされているが、もちろんこれは城郭として成立したものではない。

頼朝は三浦市内に梅・椿・桜の3御所を用意しそこに愛妾を囲っていたとの事。当初は戦闘を意図したものではない。
結局のところ、三崎城が城郭として機能したのは戦国期になってからであろう。
相模の名族・三浦氏が後北条氏との戦いによって滅亡したおり、新井城と同時に三浦氏の城であった三崎城が陥落したという記録がある。よって、この落城劇が起きた1516年(永正13年)には既に三崎城があったという事になる。

『原の身代わり地蔵』 は真浄院と呼び、三崎の鎮守海南神社の分離以前の寺で海汐寺といった。 
本尊は地蔵菩薩であり、
この地蔵尊にまつわるこんな話が伝えられております。 
その昔、北条早雲の軍勢に攻められること三年、いまや兵糧も底を尽き、刃折れ矢尽きた新井城の三浦道寸義同は永正十五年(1516)七月十一日、城兵一同自刃するか城門を開いて決戦を交えるかで衆議を重ねました。 
その結果は決戦と決まり、その由を三崎城を守護する将、出口茂忠に伝えるべく伝令を出しました。 
伝令を命ぜられたのが原(三崎にある地名)の川島吉隆の家臣・川島身七で、海を泳ぎ渡り、木影を選んで敵兵の目をかすめ、苦労の末任務を果たしましたが、城(新井城)に帰る道すがら油壺の海を染めた血潮を見て、戦が終わった事を知りました。 
一方、北条勢は一部の兵を新井城に残すと、三浦の残兵をとらえながら三崎城に兵を進めました。 
身七は山中を這うようにして追手の目を逃れ、この地蔵堂の下に隠れていたが運悪く発見され、たちまち首を切り落とされてしまいました。 
ところが、追手の兵が切ったのは身七の首ではなく地蔵尊の首でありました。 
これは、床下で身七が地蔵菩薩を念じていたので、いつか菩薩が身代わりになってくれたのでした。 
その後、慈悲溢れる地蔵尊の徳を慕い、身七はこの地蔵堂で剃髪して地蔵原身七と名のり、新井城に散った道寸等の霊を慰めて一生を送ったと伝わっています。 

また、三浦軍と後北条軍の交戦当時、三崎城には三浦方の城代・出口茂忠が入っていたが、落城と共に大半の兵は討死し、残った兵は城を逃れて城ヶ島(三浦半島の南にある島)に立て籠もり抵抗を続けたと言う。
1513年(永正10年)の足利政氏書状に於いても「三崎要害」の記載があるためこの年代には三崎城が用いられていたという点は確定的であろう。
さて、三浦氏の滅亡により後北条方に接収された新井城と三崎城。それまでは新井城を本城とし、三崎城が出城として機能していたのだが後北条氏は運用を改め、三崎城をこの地域の拠点城郭として整備していく。
伊豆から相模へと領土を伸張させていた後北条氏は、小田原に本拠を構え武蔵や下総、房総半島へも進出して行くのだが、三浦半島と海を挟んだ位置にある安房・上総では強敵である里見氏が勢力を張っていた。
このため、江戸湾(東京湾)の制海権をめぐり両者は数度に渡って海戦を行う。
水軍城郭である三崎城が重視されるのは当然の流れだったと言えよう。
三崎城は玉縄衆(玉縄城家臣団として統率される師団)隷下の城と位置付けられ三崎海賊(水上兵団の事)の運用拠点になっていく。横井越前守らを城代とし船手大将の出口五郎左衛門尉・梶原備前守ら三崎十人衆と呼ばれる水軍を配備し城の規模も拡張されていった。こうした状況下、北条水軍と里見水軍は戦歴を重ねていくのである。一例を挙げると、1526年(大永6年)の暮れ里見水軍が鎌倉へ上陸し破壊活動を行うも、玉縄衆が迎撃し撃退。
1556年(弘治2年)には三浦半島各所に里見軍が上陸し占拠した事件もある。
この時には城ヶ島も主戦場となっており、三崎城も一時里見方の手に落ちた。
さらに1571年(元亀2年)にも里見水軍と北条水軍が交戦に及んでいる。
天正年間(1573年~1592年)になると、三崎城主に北条氏規(うじのり)が任じられる。氏規は後北条氏3代当主・氏康の5男。後北条氏は一族を重要城郭の城主に任じる事で地域支配網を確実に広げており、氏規も三崎城近くの相模国三浦郡三崎宝蔵山に領地を得ていた事から城主に抜擢され三崎水軍を統率する役に就いたのである。氏規の入封により三崎城はさらなる改良が加えられ、三浦半島南端を守るに相応しい大城郭へと発展。
1577年(天正5年)4月17日付の書状において、城の竣工を氏規が報じている。
斯くして整備された三崎城は、海に面した小山の崖上に主郭と二郭を並列させ二郭の前面に大きな馬出、その馬出に連なる西側に三郭、東側に四郭が続く。
結果的に四郭は主郭を塞ぐ位置になった縄張り。各曲輪間は虎口によって厳重に守られ、また、曲輪間の相互補完性が極めて強い構造になっている。
例えば三郭に対しては馬出と二郭の両方から射撃が行えるし同様に四郭に対しては馬出と主郭から攻撃軸線が用意できるのである。
まさに“後北条流城郭”の真骨頂である曲輪間の相互連携性を重視した縄張り。
これを実現するため、馬出は敢えて不整形な5角形になっております。
こうした曲輪群を囲うように、外郭も配置。そして主郭直下の浜辺に軍船が集結するようになっている。しかも、三崎城の港をかばうように南岸を城ヶ島が塞いでいるため、天然の防波堤として機能するようになっていた。
氏規の統率によって進化した三崎城と三崎水軍は、1577年の11月に里見水軍とまたも交戦に至り、遂にこれを撃破したのである。
抗いきれなくなった里見氏は後北条氏と講和する事となり、江戸湾の制海権は後北条方の手に入った。以後、三崎城は相模湾~江戸湾における水上交通の監視拠点として用いられ申した。
このようにして後北条5代・約100年に渡って整備拡張され続けてきた三崎城
ところが、1590年(天正18年)天下統一に王手をかけた豊臣秀吉が後北条氏を下さんとして大軍を以って関東地方に侵攻。外交に長けた北条氏規は後北条領における西の要である韮山城(静岡県伊豆の国市)に籠もり豊臣方と駆け引きを演じたため、三崎城は城代の山中上野介が守備した。
しかし結局、後北条氏は秀吉に降伏したため終戦。 三崎城も開城し、これを以って廃城とされたのであった。


明治頃までは城郭の遺構が比較的明瞭に残されていたと言うが、現在、城の敷地であった場所には三浦市役所や市体育館、学校などが建ち曲輪の跡形や堀などの構造物は殆んど消え去っている。部分的に土塁の残礎が散見され、写真を見て分かるように車の高さより上まで盛り上がっている場所もあるが、これはあくまでも玄人目で見て気付くもの。
正直、城郭らしい姿を見て取れる場所は少ない。主郭下、かつては港だった部分も今ではかなり埋め立てられ、往時の海岸線は残らない。 当時の城の立地を推測するのが一番の見所であろうか…。

三崎城(イメージ図)

三崎城

三崎城007
原の身代わり地蔵
三崎城004
三崎城002
三崎城006
三崎城005
三崎城003

【出口五郎座左衛門茂正(三浦浄心)】出口茂忠の孫

 天正18年(1590)7月7日、圧倒的な兵力差の豊臣軍に対して、小田原城に籠城していた北条軍はなすすべもなく開城、北条氏政・氏照兄弟は切腹、氏直は高野山に追放となり、百年ほどにわたって関東地方に覇をとなえた北条氏はここに滅亡した。これによって豊臣秀吉の天下統一事業はほぼ完結をみたのである。
 小田原城に籠城していた武士たちは、城を出て浪人し、その後さまざまな人生を送ることとなる。その中に三浦郷出身の一人の武士がいた。彼の名は出口五郎左衛門茂正(出口茂忠の孫)。早くに父を亡くした五郎左衛門は15歳の初陣から、さまざまの戦場を経験してきた。そして10年余り経った天正18年、26歳になった彼は、当然の如く小田原城籠城衆のうちに入っていた。北条氏が滅びてしまった今、そんな彼も小田原城を出て、新しい生活の手段を探さざるを得なくなったのである。
 他にこれといったあてもない五郎左衛門は、故郷の三浦郷
三浦市初声町下宮田字和田)に戻り、そこで帰農した。しかし、百姓としての生活は楽ではなかったらしい。彼は休む間もなく慣れない農作業に励んだが、生活は次第に苦しくなり、ついには年貢の滞納をせざるを得ないまでの状況になっていった。代官はそれを許さずに彼の家族を人質に取った。(奴隷として売り払うつもりだったのであろうか。) かろうじて年貢を納めることができたものの、彼は「もうここで暮らしていくのは限界だ」と思うようになる。
 そんな彼の耳に入ったのは新興都市として発展しつつある江戸のうわさであった。江戸に行けば何とかなるかもしれない、別天地を求めて、ついに彼は江戸に赴いた。それから後の彼の動向は明らかではない。だが、海産物問屋を営み、生活面では成功したらしい。やがて自分の時間を持てるようになった五郎左衛門は、慶長年間頃に種々の著作をなすようになる。もともと文学に素養があり、文章能力もある人物であったのであろう。彼の著作からは和漢のさまざまな書物からの引用が見られる。
 五郎左衛門は、晩年は天海僧正に帰依し、天寿を全うする。正保元年(1644)3月12日、80歳であったと伝えられる。戦国期の武者としてはかなりの長寿であったというべきであろう。小田原の役が終わってから、半世紀余りも彼は生き抜いたのである。三浦氏の出身であった彼は、晩年は三浦浄心を名乗っていた。慶安3年3月15日付けで「三浦五郎左衛門尉浄心」と、彼の名が刻まれた石造手水鉢が浅草寺境内淡島社の前に残されている。
 彼、すなち三浦浄心が残した代表的な著作が「慶長見聞集」である。これは32巻もある非常に大部の作品であった。この大部の作品から後に歌舞伎関連の項目が抜き出されて「そぞろ物語」となり、同様に北条氏に関連するものが抜き出されて「北条五代記」として出版されるようになる。上記の彼の経歴もこの「北条五代記」(以下「五代記」と略す)に拠ってまとめてみたものである。この「五代記」こそが近世を通じて広く読まれ、後に輩出する北条に関する軍記物の原点となる作品であった。
 近代に至るまで、北条に関する歴史はこの作品に描かれた内容を基本として捉えられていたのである。
 さて、この文章は、次のように展開していきたいと思う。

詳しくは・・・第二次国府台合戦と軍記物との関係について

出口茂正(三浦浄心)Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%B5%84%E5%BF%83

【出口家の系図】と【出口光先生(左からお二人目)】

出口光先生 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8F%A3%E5%85%89

※出口光先生の御先祖様は、三浦一族との御縁が非常に深く三浦一族(出口家)の出身と思われるものの確たる証拠が発見されていないため現在のところは正式に公表することはできません。

三浦一族 家系図 出口家

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出口光先生の曽祖父でございます出口王仁三郎先生浅野正恭先生、そして弟の和三郎先生の作であります『小桜姫物語』。この三浦一族のお姫様と伝えられている小桜姫の伝説や三浦一族の調査を地元の諸磯で長年にわたり研究されている渡邊酒店社長のインタビュー【小桜姫の伝説とロマンの物語】です。諸磯 渡邊酒店の横の敷地に、その昔、光宝院(住職:荒井一族)というお寺がありました。そのお寺の敷地の中に小桜姫神社が建立されていたという言い伝えがございます。

小桜姫の歴史ロマン《三浦伝説の地》

 ・油壺【小桜姫弁財天】 ・浜諸磯【小桜姫神社】 ・城ヶ島【小桜姫観音】

🗾三浦 🏯城ヶ島 💠小桜姫

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